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キャラメルマキアートを食べたい時

2009
27
August

私は1度広島県にあるカフェレストランで、キャラメルマキアートを飲んでみようと思っています。島根県と鳥取県にあるカフェレストランでは、いつもジャスミン茶やコーヒーを注文するのですが、都会に出ましたらカプチーノやキャラメルマキアートを飲んでみたいですね。キャラメルマキアートは、名前通りキャラメルの味が濃くて、昔からキャラメルが好きな人にはお薦めのメニューであります。広島まで行ったら、1回だけキャラメルマキアートを味わいたいです。キャラメルマキアートは、カフェやコーヒーショップなどに行った際にはよく飲む飲み物のひとつです。
実際にハーゲンダッツのキャラメルマキアートを食べたことがありますが、
まさにキャラメルマキアートと言った感じに、とてもよく表現されていました。
キャラメルソースと、カフェラテ風味のアイスは、別々に食べてもきっと美味しいだろうと思いました。
あっさりしていますが、アイス自体が濃厚なので、食べると贅沢な気分になれます。
 想像を絶する大津波は大勢の尊い命を奪った。11日で東日本大震災から1カ月。今も行方の分からない家族や知人を捜し続ける人がいる。倒壊した家屋跡では、マスクに長靴姿の人々が思い出の品や家財道具をがれきの中から拾い集める。海岸沿いの市街地には、ほこりと海に流出した油の異臭が立ち込める。水道や固定電話も復旧していない。避難所の被災者は将来への不安と不慣れな集団生活のストレスを募らせる。「決して忘れてはいけない」。家を失い、必死に生活再建を図る家族は、震災の記憶をそう胸に刻み込んだ。【宮崎隆】

 岩手県大船渡市末崎町の西舘地区で暮らす自動車販売業、村上優さん(44)と家族5人は東日本大震災による大津波で自宅を失った。出張先と自宅や学校。村上さんと父謙司さん(71)、妻直美さん(42)、3人の子供たちはそれぞれの場所で大震災に遭遇した。

 謙司さんが初めて経験する大きな揺れを感じたのは、自宅から約2キロ離れた交番で立ち話をしていた時だった。11日午後2時46分。民家の屋根瓦が崩れ落ちる様子に「ただごとではない」と直感し、軽トラックで自宅へ向かった。自宅には直美さんと、県立高田高校の授業が午前中で終わった長女の晴香さん(17)がいた。

 揺れが収まり、台所の割れた食器を片付けていた謙司さんは、玄関の隙間(すきま)から染み出してきた黒い水に気づいた。とっさに「津波だ。逃げろ」と叫んだ。直美さんと晴香さんは2階に駆け上がったが、謙司さんはあっという間に天井近くまで押し寄せた濁流にのみ込まれた。右手で必死に天井の梁(はり)にしがみつき左手で水をかきながら、何とか水面に頭を出した。窓から波間に浮かぶ近所の家が見える。「もう助からない」。死を覚悟した瞬間だった。

 2階のベランダの前を「ゴーゴー」という音と共に家や車が押し流されていった。「これ以上水かさが増したら屋根に上ろう」。直美さんはそう決心し、晴香さんは恐怖で足が震えた。涙も止まらなかった。水が引くまでの10分を何倍にも感じた。母と娘は「津波の勢いがあと少し大きかったら、自分たちものみ込まれていたかもしれない」と振り返る。

 「港の近くが波をかぶるくらいだと思っていた」。1960年のチリ地震津波を体験した謙司さんでさえ、恐怖の記憶は薄れていた。家族の誰一人として港から直線距離で500メートル以上離れた自宅がのみ込まれるとは想像していなかった。だが、津波は自宅と港の間にある神社の高台を迂回(うかい)して、約1キロの道のりを押し寄せてきた。

 毎年5月24日、チリ地震の発生時刻に合わせた早朝の避難訓練に、子供たちは「参加した記憶がない」という。村上さんの長男愛季(よしき)さん(15)は「津波があったことは知っていたが、実感がわかなかった」と話す。

 3人が間一髪で難を逃れていたころ、市立末崎中学校3年だった愛季さんと、次女で末崎小学校2年だった美優さん(8)は、それぞれ学校にいた。体育館で卒業式の予行演習をしていた愛季さんは、全校生徒で校庭に避難した直後、眼下の太田地区が10メートル以上もありそうな津波にのみ込まれるのを目撃した。周りの生徒はざわついたが、言葉を失ったという。

 津波警報や注意報が発令されると、大船渡市内の小、中学校は家族が迎えに来ない限り、子供たちを帰宅させない。2人の通学路になっている漁港脇の県道には、高さ7メートルほどの防潮堤を越えて津波が押し寄せ、自宅までの道は寸断された。電話も通じず、近くのコミュニティーセンターに避難した直美さんは、2人を迎えに行くことも、無事を知らせることもできなかった。

 「寒かったし、お母さんたちが心配でたまらなかった」。床にござを敷いた小学校の体育館で、家族の安否も分からぬまま過ごした経験を、美優さんはそう振り返る。夜になると愛季さんが中学校を抜け出して、妹を励ました。直美さんたちががれきの中を歩いて、2人を迎えに行けたのは3日後の14日だった。

 本震の発生時、村上さんは「関東大震災が起きたと思った」という。東京都内のビルの一室で商談をしていた。しばらくすると、テレビ画面に釜石港や仙台空港に濁流が押し寄せる光景が映し出された。電話は大船渡市の家族や陸前高田市の妹、仙台市若林区の弟とつながらなかった。

 不安に耐えかね、14日には東京から国道4号を北上して大船渡を目指したが、通行止めのため福島県境で引き返さざるを得なかった。関東や九州に住む同郷の知人と連絡を取りつつ、テレビやインターネットで家族の安否情報を探し求めていた村上さんが人づてに全員の無事を知らされたのは15日夜。ガソリンを調達し、再び大船渡へ向かった。

 25日の家族再会から数日後、村上さんは1階部分が流失した自宅の片付けをしていた。手を休めて「この土地に愛着はあるけれど、またこんな津波が来るかもしれないと思うと住み続けられない」と話した。直美さんも同じ気持ちだ。自宅は11日にも取り壊し、家族は大船渡市でも内陸部の日頃市町にある直美さんの実家に身を寄せるという。

 一時は互いの安否も分からぬまま離ればなれになった家族全員が黒い水の恐怖を忘れることはできないし、忘れてはならないと思っている。晴香さんは保育士になりたいという。「地震が来たら逃げなさい」。夢をかなえたら、震災から家族が得た教訓を子供たちに伝えてあげるつもりだ。

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